フーテン少年日記 / Okoshi Naoto

ドードー・フロム・ザ・ユートピアという名前で音楽をつくっています。

創作はボトルメールのように

「さぁ、放たれたぞ。きみは、どこに辿り着いて、どんなひとが受け取ってくれるのだろう。」


ぼくはしばしば、自分の作品を世に出す行為を、ボトルメールに例えている。誰が受け取るかはわからない、受け取ってくれるかもわからない。それで良い。それが、良い。放った瞬間に、真っ黒な波濤に流されていくのを見送る。さっきまで、ぼくの心の中にしか存在しないものだったのが、そうじゃなくなる瞬間。すっと美しい孤独が、この胸に溢れる瞬間。


思ったことは何か作品にしないと、嘘になるって感じてしまう困った性分をしている。それが音楽になっても、文章になっても、写真になっても、踊りになっても、微笑みになったとしても。この心の中に生まれた美しさを翻訳していく作業。それに関しては、ぼくはまだまだ初心者コースの人間だけど。せめてこの涙が、あいつの言葉が、あの子の笑顔が、この心からなかったことにならないように。


ただ、それだけのために、何かを作っている。だから、受け取ってくれたひとがどう思うかは、そんなに興味がない。もはや、受け取ってくれるかどうかも、どうでも良いとすら思えているかもしれない。作ったものを世に出すこと、自分を磨いて、それを繰り返すこと。それだけがいまのぼくのやりたいことのすべて。


だって、そうでしょう?ぼくの音楽や表現や、ぼくそのものが本当に本当に素敵になれば、そんなこと気にしなくても、きっと世界のどこかで、誰かがこのボトルを拾って、大事な宝物にしてくれるって信じている。これを読んでくれている、あなたのもとにだって。


ぼくの好きなミュージシャンは「自己満足は妥協の対義語」という素敵な言葉を残してくれている。だからぼくは、いまは「その先」のことを必要以上に考え過ぎず、もっともっと磨いていくってルールを決めたんだ。スキルや情熱はもちろん、意味も、意志も。もっと研いで。


そうしてぼくは今日も、この心を燃料にして、新しい作品をつくり、海に流す。いまは誰も知らない音楽を。誰の目にも触れない物語を。願わくば、この先、ぼくの表現と誰かが出会ってくれて、喜びを調律したり、哀しみに寄り添ってくれることを祈って。

 

「いってらっしゃい。しばらくの間、さよなら。いつか先の未来で、誰かと出会えると良いね。それじゃあ、またね。」

 

きみを見送ったこの場所で、ぼくはまた、自分の心の中の美しさと向き合うんだ。さぁ、次はどんな表現と出会えるんだろう。薪を燃やす。燃やす。燃やす。