フーテン少年日記 / Okoshi Naoto

ドードー・フロム・ザ・ユートピアという名前で音楽をつくっています。

ある日、喫煙所の中

 

これは完全に私の浅慮であった。新入社員のAさんと、だいぶ心の距離が縮まったと感じたため、私は彼に喫煙所で「すげー疲れてるとき、家帰ったら開口一番『うんちーーーー!』とか叫んじゃいますよねぇ」と話題を切り出した。


私の中では「小学生の時って走るの速いやつがモテるよね」くらいのウルトラ王道あるあるトークのつもりだったのだが、Aさんの返答は「いや、そんなことないっす、、、」と。まさに、きつねにつままれたような気持ちであった。


そして私は、またしても「当然の壁」にぶち当たるのである。私は自分が考えてることは、当然他人も同様に考えるだろう、と思考してしまいがちだ。蓋し、幼少期に他人とのコミュニケーションの機会が不足していたことが要因であろう。世界において、自分の考えがおしなべて正しいと信じてしまうところがある。信じてしまう、どころか、それに一切の疑いの余地を持っていないまである。


「大越さんってなんだか、仲良くなればなるほどよくわからないひとだなぁってなりますね」彼のその言葉がひとつの答えだろう。私はあまり他人の気持ちがわからない。相手の話を聞いていても、なぜか最終的には私が自分の話をしているし、会話の主導権を握ってしまっている。正直私のことは理解されなくてもかまわないが、私自身は目の前の誰かのことについてもっと受け止められるようになりたいと常々感じている。


されど、私が感じていることや見ているものがひとつの正しさを纏っていることもまた事実なのだ。誰かにとっては異常なことであっても、思ってしまったのならそれは私の中だけでは真っ当な真実。疑いようもなく愛しい絶対なのは間違いないのだ。


当然のハードルを少しずつ下げていくこと、自分の気持ちは事実として愛すること。これが肝要だと改めて実感した昼下がりであった。そして今日も私は帰宅するなり、「うんちーーーー!」の絶叫とともに粒子のように霧散するのである。