フーテン少年日記 / Okoshi Naoto

ドードー・フロム・ザ・ユートピアという名前で音楽をつくっています。

お散歩ダンディズム

ぼくは散歩をするのが好きだ。休学してたころなんて、なんにもすることがないから、毎日、日が変わってから太陽が昇るまで、音楽を聴きながら延々とあてもなく歩いていた。

 

いまでも「あ、散歩いこ」って思ったら少なくとも1時間、興が乗ったときは3時間くらいは気づけば歩いている。もちろん、行き先は決めないし、時間も決めない。ブラブラ、だらだら歩くことに、目的なんてものはいらないからだ。なんとなく気分が向く方に向かって、嫌になったら引き返す。そんな感じ。

 

散歩は自分と向き合う時間だ。家でひとりで考えてしまうと、ややもすればネガティブに向かってしまうようなテーマも、歩きながら考えると、なんとなくポジティブなほうに進んでいくような気がしている。そのときの何か開けたような、胸の透くような気持ちと、この冬の張り詰めた静寂の匂いが重なる時、たまらなくいとおしい気持ちになる。

 

最近、故あって「ダンディ」という言葉について調べていた。あんまりピンとこない言葉だったんだけど、たまたま面白い記事を見つけた。

 

https://www.leon.jp/lifestyle/12814

 

・ダンディズムはジェントルマン社会の主流に対する抵抗から生まれているところもあります。

・ダンディであるために最も重要な、孤独を愛するということ。

 

なるほどなるほど。文化や由来を知れば、概念への理解や向き合う意識も変わってくる。ダンディズム、けっこう好きな考え方だよ。

 

これを読んでくれるみんなはきっと理解してくれているだろうけど、ぼくは完全にカウンター人間。ウルトラ逆張りおじさん。世間の主流から、気づけばどうしても遠い場所に立ってしまっている。

 

去年はどこか、その主流に合わせに行こうとしている自分がいた。変わっている、って言われたり、独特だね、って言われたりすることに、少し複雑な気持ちを感じていた。

 

ぼくはただ、自分が心の底から面白いと思ったことを言ったり、心の底から好きなものの話をしているだけなのに、「あれ?これっておかしいのかな、、、?」「おれって普通じゃないのかな、、、?」と、揺らいでしまって、別にまともに振る舞えるんだぞー!ってところを、自分自身に見せつけようとしていたんだと思う。なんとか普通になろうとしていた。

 

とは言え、自分は自分。小手先だけでまともなふりをしても、おかしいひとはおかしいまま。あぁ、めんどくさいな。まぁ、もう、どうでもいい。もう思いついたことを全部言えばいいし、そのときやりたいことは全部やってしまえばいい。合わせに行ったって、結局ぼくは「変わっている人間」だと思われるのなら、もっともっと、ビビッドに自分をぶつけたほうがいい。自分のアイデンティティ的な側面を見て見ぬふりしている人間なんて、ちっとも面白くない。本当の気持ちを隠して、腹話術しているようなもんなんだから。

 

おかしかろうが、変わっていようが、気色悪かろうが、それで誰かに嫌われてしまうのなら、みんなが離れていってしまうのなら、ぼくがそこまでの人間だったというだけのこと。本当に心の底から、誰にどう思われても良い。そういうことに脳のリソースを使うのに完全に飽きてしまった。

 

ぼくはもう、逃げずにぶつかっていくんだ。いろいろセーブしていた振る舞いを、フルスロットルでブーストしていく。こっちは自分のスタンスを一歩も譲る気はないから、きみたちがぼくに合わせるんだよ。よろしくね。

 

 

 

新年に寄せて

継続。それが2023年のぼくのルールだった。これは前にも書いた覚えがある。今日は未来に向けてのことを話すよ。


2023年のぼくは、そのルールを間違って解釈してしまったようで、自分でも無意識に「誰かの好き」に自分を合わせようとしてしまっていた。何も捨てずにいることと、誰とも、何ともお別れしないことを履き違えてしまっていた。


ぼくの好きなミュージシャンや芸術家たちは、「これがおれだよ!」ってテイストで、自分自身をビビッドにぶつけているひとたちだもん。そうだよね、ぼくはそういう生き方にあこがれたんだった。これからはもう一度、「自分の好き」にチューニングを合わせていくよ。


池の水全部抜くばりに、やりたいこと全部やっていく。きみにわらってほしい。ぼくにきづいてほしい。


自分の中の弱さや恐怖をちゃんと見つめられたから、きっとそれを恐れないで歩いていける。それがもし、あなたたちとは違う路でも。ペルソナ4みたいでいいでしょ?


だから、2024年のぼくのルールは、「逃げずにぶつかっていく」こと。弱いなら、強くなれば良い。恐怖の正体がわからないなら、解き明かせば良い。見つめること、見られることを楽しんでいく。「これがぼくだよ!」って生きていくから、今年もよろしくね。  

ある日、喫煙所の中

 

これは完全に私の浅慮であった。新入社員のAさんと、だいぶ心の距離が縮まったと感じたため、私は彼に喫煙所で「すげー疲れてるとき、家帰ったら開口一番『うんちーーーー!』とか叫んじゃいますよねぇ」と話題を切り出した。


私の中では「小学生の時って走るの速いやつがモテるよね」くらいのウルトラ王道あるあるトークのつもりだったのだが、Aさんの返答は「いや、そんなことないっす、、、」と。まさに、きつねにつままれたような気持ちであった。


そして私は、またしても「当然の壁」にぶち当たるのである。私は自分が考えてることは、当然他人も同様に考えるだろう、と思考してしまいがちだ。蓋し、幼少期に他人とのコミュニケーションの機会が不足していたことが要因であろう。世界において、自分の考えがおしなべて正しいと信じてしまうところがある。信じてしまう、どころか、それに一切の疑いの余地を持っていないまである。


「大越さんってなんだか、仲良くなればなるほどよくわからないひとだなぁってなりますね」彼のその言葉がひとつの答えだろう。私はあまり他人の気持ちがわからない。相手の話を聞いていても、なぜか最終的には私が自分の話をしているし、会話の主導権を握ってしまっている。正直私のことは理解されなくてもかまわないが、私自身は目の前の誰かのことについてもっと受け止められるようになりたいと常々感じている。


されど、私が感じていることや見ているものがひとつの正しさを纏っていることもまた事実なのだ。誰かにとっては異常なことであっても、思ってしまったのならそれは私の中だけでは真っ当な真実。疑いようもなく愛しい絶対なのは間違いないのだ。


当然のハードルを少しずつ下げていくこと、自分の気持ちは事実として愛すること。これが肝要だと改めて実感した昼下がりであった。そして今日も私は帰宅するなり、「うんちーーーー!」の絶叫とともに粒子のように霧散するのである。

 

 

無題

どうやら、心が折れてしまったみたいだ。

 

ダムが決壊したみたいに、膨大な量の自分を責める言葉があふれてきている。

 

おれは町人から恐れられている醜い怪物だ。

 

普通にしているつもりなのに、どこかはみ出してしまう。存在しているだけできっと、こわがらせて、みんなの迷惑になってしまう。だからおれは、遠くからみんなが楽しそうにしているのを見ているだけでじゅうぶんなんだ。それがおれの身の丈にあったしあわせのはずなんだ。はずなのに、欲を出して町まで遊びに行ってしまって、なにもかもをめちゃくちゃにしてしまう。いつだって、どこにいたって、そんなふうに世界を歪ませてしまう。

 

自分の本当の気持ちは話したくない。「ちっぽけな人間だね」って思われるのが怖いから。そうやって本音を言わずに生きていると、初めから騙しているような、嘘をついているような気持ちになる。だからおれは、「みんな」の中に入れない。入らなくて済むように壁を作っているから。それでみんなを気味悪がらせてしまう。いつだって、どこにいたって異邦人になる。

 

ここ何年かは、ポジティブな人間を憑依させて、くそしょうもない本当の自分を押し込めて、去勢を張って、なんとか誤魔化せていた。けれど、改めてその事実をつきつけられて、とても傷ついてしまったみたいだ。かなしくなるくらい、全然なにも変わってないし、進んでいない。何回同じことを繰り返したら理解できるんだ?っていうくらい。

 

「そりゃそうだろ?お前は努力をしたつもりかもしれないけれど、努力をしたつもりになってるだけなんだから」

 

元気も勇気も出てこない。誰にも合わせる顔がない。少し疲れてしまった。

 

良かったことも、悪かったことも、2度と元の形には戻せない。誰かの今や未来をこれ以上壊してしまわないうちに、怪物は駆除されなくちゃいけない。

 

おれから出てきたあらゆる総てがゴミに見えるよ。煮詰まって、妥協して、見栄を張って、生み出した燃えないゴミ。ほんと、それらしい言葉を並べて、何が「美しい」だよね。おれの頭はからっぽだよ。

 

誰も読んでないだろうけど、どうかみんなは健やかにね。怪物にかまうと、きみたちも怪物になっちゃうからさ。おれは救いようがないゴミなんだ。もう自分では動けないみたいだから、このゴミがきみたちの目に入らないように、どっかに行ってくれ。

 

バッド・ドリーム・ハッピー・プリンス

「幸福な王子」という童話がとても好きだ。

幸福の王子、というタイトルの場合もある。助詞が違うだけで、だいぶ印象が変わるけれど、今回はそこには触れずに話を進める。

 


読んだことがあるひともたくさんいると思うし、あらすじを書こうとすると長くなるから割愛するけれど、オスカー・ワイルドが書いたこの児童向け小説は、博愛と自己犠牲の美しさと悲劇性を孕んだ作品だと語られがちだけど、おれはこの王子のとてつもなく自分勝手な部分が大好きだ。

 


冬が来る前に南国に渡らなくてはいけないツバメを唆して、自身の身体の宝石や金箔貧しい人々に渡す手伝いをさせる。その後にツバメに待ち受ける結末や、一瞬の幸福が訪れた人々に訪れるそれからに関しては、一切の勘案もなく、自身の行いが世の中を良くするのだと信じて。その部分におれはとてもつもない美しさと孤独を感じる。どこか宮沢賢治的な世界観と重なる部分をもつこの物語は、幼少期からおれの中の大事な部分を占めるペーソスになっている。

 


この話はおそらく、自己犠牲の賛美ではなく、自らを引き換えにした博愛が産む悲劇性を描いてる。という批評を読んだ。それはおれもそう思う。

 


でも大丈夫だよ、王子様。おれも一緒だからね。自分を犠牲にすることがハッピーエンドどころか、大事な存在を殺してしまうような悲劇を生むとしても。幸福を願ったひとびとに、恩を仇で返されて自身の身体を焼き尽くされようとも。そういう生き方を決めてしまったのなら、もう、それが総て。

 


おれ自身のことを話せば、自分の行動がどう思われるかには、あまり興味がなくて。見返りがあるかなんて、本当にどうでも良いことだし、仮にこの心が誰かに向けた感情や行動が優しさや博愛や愛情だと受け取ってくれたとしても、それは受け取ってくれたひとが持ってる優しさ、おれには関係ない。

 


自分の心で決めたこと。それがきっと、未来を良くするって信じたこと。それだけがおれの慈しみ。努力は実らなくても、裏切られたとしても、それはただの結果だからね。自分が信じる美しさはひとつたりとも傷つかない。少しだけ涙を流して、おれはおれの路を往くよ。

 


そんな考えは幻だと誰かにうしろゆびを指されようが、信じた光にこの目を焼き尽くされようが、別にそれでかまわない。この先のずっと未来まで、慈しみだけで頷けるように。まぁ、もし、おれが焼け死んだ時は、願わくば桜の木の下にでも埋めてもらえるよう、ここに書き残しておく。毎年春になったら、みんなを見守るからね!

夏っぽさ、無視できず。

もうすでに、年末の流行語大賞に取り上げられそうな言葉の100倍くらいは「暑い」って単語が耳に入ってきているし、その10倍くらいはそう言っている。のだけれど、今年の夏はなぜだか不思議なもので、「これで35度なら、なんか乗り切れそうな気もするな」っていう、いままで感じたことのない感覚もある。

ぼくは季節の中で夏が1番きらいだ(ちなみに、春は論外なので、選択肢にすら入らない)。


夏の名誉のために補足しておくけれど、夏がもたらす様々なものに関しては好意的に捉えている。線香花火をどっちが長く保たせられるかなんてかわいい競争や、お祭りの屋台で並べられているりんご飴の光沢に対する憧れ、太陽光線に屈折するプールや海の風景、汗だくで働いた後に流し込むビールがくれる幸福、そのすべてを美しいと感じている。


ただただ「暑さ」、その一点のみによって、この季節に対する全てがネガティブな感情にひっくり返されるというだけなのだ(仕様通りに完成しているのに面白くない、ストロングスタイルのクソゲーに通ずるものがある)。


小さい頃、こんなに暑かったって感じてたことを思い出せない。この20年で、そこまで気温が上昇してしまったということなのかな、と思って調べてみたけど、2000年の6月末でも30度くらいはわりと記録しているみたいで、まぁ、近年ほどではないにせよ、十分暑かったという事実に愕然としている。ぼくの好きなミュージシャンが言っていたけど、間違いなく子どもの頃は、暑さが口から出る感情の優先順位として、低かったんだろうな、と。


冒頭、夏がきらいだと述べたけれども、嫌や嫌よも好きのうち、なんて言葉があるように、どこか夏を好きでいたいと思っている自分もいるのかもしれない。何かを思い出したり、郷愁を感じるとき、そのシーンは不思議と夏っぽいものであることが多い。ぼくにとって、いちばん好きな季節である冬は、パワーをくれる季節だからかもしれないけど、夏はその逆に、センチメンタルさをこの心にもたらしてくれる。きっと、ぼくが夏に対してツンデレーションを持っていることの証左なんだろう。


そして、いちばんはきっと、このバンドのせいだろうね。


GRAPEVINE「here」from 15th Anniversary live at NHK Hall (2012.09.26)

https://youtu.be/q3cZycPkisQ

 

ぼくはもう、二度と未来で美しいだけの夏を感じることはできないだろうから、せめて思い出の中だけでも、きれいな夏を見つめていたいと、そう思わせてくれる音楽。この先、考え方は変わるかもしれないけれど、いまはそれで十分。さて、やっぱりなんとか、この夏を乗り切れそうだ。

Kくんについて(It's a piece of cake.)

昨日は親友Kくんの結婚式があった。結婚式は、Kくんの人柄がよくあらわれた、参列された方々のことを1番に考えたような、真心のこもった式だった。


ぼくはなんとまぁ友人代表の祝辞という大役を任せてもらった。尺の都合や、式の雰囲気に合わせて、もともと言おうと思っていたことをだいぶオミットしたり、別のことを言ったりしたから(それでも、途中かなり気持ちが込み上げてしまって、構成上とんちかんなスピーチになってしまったが)、本来ならばどんなことを言おうと考えていたか、記録しておこうと思う。


ぼくとKくんは大学からの友人だから、かれこれもう10年以上の付き合いになる。10年以上経って、親友となんの躊躇いもなく呼べる関係でいられることを誇らしく、嬉しく思っている。


Kくんの第一印象は、カジュアルな言い方をすればスマートで大人びたかっこいいやつ、少し突っ込んだ言い方をすれば、こちらの考えていることや人間性はすべて見通しているようなひと、だった(実際、彼はそういう人間だしね)。


実のところ、最初の1年間はそんなに仲良くなかったというか、関わることが少なくて、ぼくの記憶だと、おそらく1年生の秋か冬くらいに少しずつ関わりが増えていったような気がするけど、合ってるかしら?そのくらいから、彼が所属しているサークルにも誘ってもらったという流れだと記憶している。


ぼくは他人を信用するまでのハードルがとても高い、という悪い癖がある。そんなぼくが、彼のことを信じていられるのは、彼がとても正直な人間だからだ。


もう30歳になってしまったぼくらにも確かに、10代という多感な時期があって、いまなら笑って乗り越えられようなことも、センシティブに受け止めすぎてしまうことがたくさんあった。多分ふつうのひとよりだいぶ多かったんじゃない?と思ってしまうくらいには、自分や自分たちや未来に対して、常に不安と悩みを抱えていた。そんな心の繊細な機微を、誰かに話すのはとても恥ずかしくて、情けないことだとぼくは考えていたので、それまでの人生でぼくはそんなことを表に出すことは一切なかった(漏れていたことはいっぱいあったろうな、いま思い返せば)。


けれど、彼はそんなこともぼくに真っ直ぐに伝えてくれていた。きっと、ぼくの気持ちや考えなんてお見通しだったんだろうな。だからこそ、ぼくも誰にも見せたくないような自分の内面や、誰にも言えない哀しい過去をそっと打ち明けることができた。彼はそんな話でも、丁寧にひとつひとつ受け止めてくれた。それが本当にうれしかった。ぼくにとって、本当に救いだったんだよ。


大袈裟でもなんでもなく、Kくんに受けた影響はとても大きい。彼がいなければ、いまの考え方のぼくはいないだろう。もっと端的に言えば、ぼくにとってKくんはあこがれなんだろう。あのときも、いまでも、きっとこれからも。


彼のすごいところ、かっこいいところ、素敵なところ、そしてそのすべてがぼくに与えてくれたものについて、もっと美しい言葉で感謝を伝えたい。そんなKくんの祝福の日なのだから、もっと素晴らしい言葉で幸福を祈りたい。なのに、出てくるのは「ありがとう」と「おめでとう」だけで、それがひどく悔しい。


ぼくがいままで作った唄に「cakes」という曲がある。この唄は21歳くらいの頃に作ったのだけれど、Kくんやそのときのぼくらのこれからに対して、「おれたちなら楽勝だよ」って言うために作った唄。彼がいなければ、もちろんこの曲は生まれていないから、この日記にも歌詞を引用しておく。

 


cakes


涙はこんな時のためにあるんだって
わかったよ いま きみが何を感じているか
「大丈夫?」なんて 言えないよ


心をひときれ 分けてあげたい気分だよ
ヘリウム吸ったって 空は飛べやしないだろ?
大丈夫なことしか言えないんでしょう?
大丈夫じゃないことは言わないんでしょう?


きみが泣いていたって ぼくには関係ないだろ
だからこうして 手を差し伸べるだけで
もう せいいっぱい


思い出は 実は そんなにきれいではなくて
口ずさむ唄はいつまでも
ほんの少し前のこと 消えてしまうもの


わかるよ きみのきもちなんて 
いたいほど

 

至って まともなんだ こんなに哀しくなるのは
だから こうして明日の話を 息が白くなるまで


涙は こんな時のために

 


この日記は、帰りの飛行機の中で書いているのだけれど、流れてる涙はきっとこんなときのための、きみのためのものだって言えるよ。


Kくん、いつも本当にありがとう。そして本当におめでとう。本当に良かったなぁ、本当に良かった。申し訳ないけれど、いま言えるのはもうそれだけ。きみがおれにしてくれたように、困ったことがあれば、おれは必ず助けにいくよ。きっときみだって、これからも、そうしてくれるだろうから。


どうか、きみや、きみの大切なひとたちの微笑みが、ずっと横に延びていくような素敵な日々が続くことを、心から祈っているよ。愛を込めて。